2018年7月7日
前回は不登校が始まった時、
まさか我が子が?!のあと
ポツポツ行ける子もいれば
ぱったり行かなくなる子もいる、
というお話をしました。
世の中には現在不登校の子がたくさんいて、
社会問題になっていますね。
でも
社会問題としてマスでとらえられても仕方がない、
要するにこの解決法がわからない、
これがいつまで続くのかがわからない、
学校へ戻るばかりが人生じゃないと
頭ではわかってる、
でもそれ以外だったらどうしたらいいの、
それがわからない。
社会の、ではなくて
うちの子の問題解決をしたい、
というのがお母さまのお気持ちではないでしょうか。
お友達と一緒に給食を食べる機会を
先生が作ってくれたり、
授業は受けなくても良い保健室で勉強すればと
言う申し出があったり、
学校も色々と知恵を絞って考えてくれます。
けれどもあの手この手を使っても
子供は毎日毎日だんだんと
背中がどんよりとしてきます。
子供は基本的に
親の期待に添いたいと言う希望がありますので
はじめは頑張ってみたりするんですけどね。
でも本質ちゃんの彼らからの視点は、
なんで勉強しなくてもいいのに保健室でじっとしていなければいけないのか。
なんで行きたくないのに学校に何が何でも行かなくてはいけないのか、
大人たちの目的は一体何?
そんなのどんな意味があるの?
という声をよく聞きます。
もともとは、
学校に行くことによって子供を幸せにし、
子供に基本的な知識をつけさせる【手段】として学校があるのに、
それがいつの間にか【目的】になり
それに絶対目的のようになってしまっている、
わたしたち大人に対する質問状。
HSCの子供たちはその根源的なところに向けて
なぜ?を投げかけてきています。
敏感ちゃん繊細ちゃんに聞いても
なんで学校に行けないの?
に対してはっきりと説明をできる子は
ほとんどいません。
その正体は違和感だから。
ここにいると理由はわからないけど気分が悪くなる、
先生が怒りを爆発するそのエネルギーが心に刺さる、
そういう感じのようです。
うちの次女は文化祭からがんばって4日連続で行ったら蕁麻疹がでていました(笑)
そして中高生になった不登校の繊細ちゃんが口を揃えて言うのは
「先生は、学校が合う人たちばかりで、学校が大好きだから先生になった人たちばかりだから私たちの気持ちなんてわかるはずがない」ということ。
とても的を射ていますね。
それは先生が悪いのではなくて、
学校にはそういう人しかいないという。
大人の私たちでも違和感というのは
最も言葉にしにくい、
説明のしにくいことではないでしょうか。
お友達のお友達を紹介された、
悪い人じゃないんだけどなんか違和感がある。
とか
会社の取引先がとても良い取引の話を持ってきた、
だけど説明できない違和感がある。
とか
「なんか」
これほど、
日本の社会において
採用されにくい言葉は他にないです(笑)
そして子どもたちはそれを知っています。
違和感の正体は
論理的ではないけれどもそうだと思う。
体感を伴って確信する。
というジャンルの事柄。
けれど人生のセンサーとして
これ以上大切なものはないと私は思うのです。
「違和感のあるものを手放す」
これを繰り返すことによって、
わたしたちは本当に
自分がフィットできるところへ到達します。
それを本能的にできている不登校の子たちは
すごい!っ
とわたしは 思います。
学校がいやだ、なんてわたしは
思っても口にだすことすら
できなかったと思います。
現在でも
不登校の子供たちを記述する言葉の中に
「無気力」と言うのがあります。
確かに物事に対してやる気がない、
と言う子もいると思いますが
HSCちゃんの子どもたちは、
無気力なのではなくて
「説明しても分かってもらえないから口を開かない」
「この人は信用できないから本音はいわない」
それを大人は何も言わないし動かない=無気力
と解釈しているのだと思えてなりません。
そういうふうに子供たちを解釈し直すと
子供たちのいる世界が少し見えてきますね?
違和感のあるところに
ずっといなければいけなかったら、
ウツになったり塞いだり、
精神にしわ寄せがくるのが人間です。
本当に大事なのは子供たちが幸せに生きる
生き生きと生きると言うことだとしたら?
その後はどのように考えましょうか。