2018年10月15日
高知県の限界集落・嶺北地区で
教育を軸に町おこしをされている
NPO法人SOMAの副理事であり
教育研究者・鈴木大裕さんに
インタビューさせていただきました。(2018年夏の高知にて。)
大裕さん(と周りのみなさまが親しみを込めてそう呼んでいらっしゃるので、感性キッズでも倣わせていただきます)がアメリカコロンビア大学博士課程からこの土佐町へ来られた経緯はこちらです。
どうして土佐に?!から町役場と協働してカヌー元世界チャンピオンの選手を連れてこられるなど、大変に興味深い記事です。
集英社新書 インタビュー
<鈴木大裕さんプロフィール>
1973年神奈川県生まれ。16歳で米ニューハンプシャー州の全寮制高校に留学。そこでの教育に衝撃を受け、教育を志す。コールゲート大、スタンフォード大教育大学院で教育学を学び、帰国後に通信教育で教員免許を取得。千葉の公立中で6年半教える。後にフルブライト奨学生としてコロンビア大教育大学院博士課程へ。土佐町での教育を通した町おこしに取り組む傍で執筆・講演活動も行なっている。著書に『崩壊するアメリカの公教育:日本への警告』(岩波書店)全国で講演・執筆活動をしつつ、大自然のなかでの家族の暮らしを楽しんでいる。
「崩壊するアメリカの公教育 日本への警告」
鈴木大裕著・ 岩波書店
それではインタビューをお楽しみください。
皆川:多様性が叫ばれるようになり、AI社会が来ると言われ、
親としてどういう価値観で子どもを育てたらいいのか、難しい時代になってきていると思います。
子育てや教育のゴールってなんでしょう。
これまでの価値観では、幸せって「個人の問題でしょう」「個人によって幸せって違うじゃない」
と言われがちで、
社会で共有できるものという認識があまりないように感じます。
けれど、ここ嶺北地域で体験するような豊かなもの
〜豊かな自然と水や緑の景色、
子どもたちが朝から晩まで川に飛び込んでいる日常、
朝カフェでの美味しい野菜の食事等、
来てみると誰の目にも明らかな幸せの形があると感じました。
「子どもが機能的である、生産的である」ということではなくて
「子どもの幸せ」というものを、
教育や子育ての目標にできるかどうかというのは、
子育て中の親にとってシンプルな疑問です。
その辺りについて、お考えをお聞かせいただけますか?
インタビューは高知県・嶺北地域の美しい川のほとりで行いました。
大裕さん:「幸せ」って言葉が、あまりにも語られてないですよね。
だから公美子さんの口から幸せっていう言葉が聞けてすごく嬉しいです。
今年100歳迎えた教育哲学者の太田隆先生は、
今の世の中を「モノ・カネの世の中」っていう風に言ってるんですけど、
やっぱりそこでは教育と生産性だとか、教育と付加価値だとか、
教育と年収だとか、そういうことしか語られない。
教育と成功っていうことは語られるけど、
教育と幸せはどうなの、って。
もし幸せになれない教育だったらそれってどうなの、
って思うんですよね。
そして、じゃあ幸せって何?って言われたら、自己実現だと思うんです。
持って生まれた個性を生かして、
それを最大限に開花させることだと思います。
皆川:心から共感いたします。
千葉で中学校教員をされていた時代には、
教育現場でどんなことをお感じになりましたか?
大裕さん:その時にすごくモノ・カネの世界を感じましたね。
教員になった時に『なんで教員になったの?』っていろんな人に聞かれて、
その質問に日本の教育の問題が凝縮されているような気がしたんです。
16歳で(アメリカに)留学して大学院まで行って、
英語もしゃべれるようになった。
学問もやって、「もっといい仕事あったんじゃないの?」っていうような、そういう感じなんです。
同僚にも言われました。
1970年代にアメリカのクライスラーっていう自動車会社を
立て直したリー・アイアコッカっていう人がいるんですけど、
彼が言ったのは
『真に理性的な社会では真に最も優秀な人が教師になって、他の人間はそれ以外の仕事で我慢するしかない。』って。
それがとても理にかなってると思います。
フィンランドは高校生の中で人気ナンバーワンの職業は教師だというんですね。
それってすごく健全な社会で、もし先生が尊敬されていたら、
子どもたちはスポンジのように吸収します。
教員が尊敬されない社会なら、どんなに教え方がうまくたって
入ってくるものも入ってこない。
僕の中学校で、「学問は塾でしなさい」って子どもに平気で言う親もたくさんいました。
だったらなんのために学校に来るの、
ってとこですよね。
僕は自分の師匠であるK先生(注:千葉で長年生徒指導をされています)を見つけて彼に教えてもらいました、
「子どもたちが困ってない」って。
「母さん、牛乳」って言えば牛乳が出てくる世界。
困ってないし、モノに満ち溢れているし、「お腹いっぱい」って勘違いしている。
お腹いっぱいの子に食べさせるのって難しいです。
でも、実はすごく飢えている。
モノは溢れてるけど精神的なものには飢えている子たちで、まずは本当は飢えてるんだ
っていうことをわからせるところから始めないといけませんでした。
皆川:なるほど。
確かに精神的に飢えている子たちが多いかもしれません。
不登校の子どもたちには特にそれを感じます。
保護者の意識に関してはどんなことをお感じでしたか?
大裕さん:日本で教えていて、
子どもや親の権利意識がすごく強まっているなと感じました。
完全に「お客様だ」という、
「何をしてくれるんだろう学校や先生は」、
っていうスタンスだから、
先生も学校も「最高のサービスを与えよう」っていうスタンスになってしまう。
でも、「サービス提供者」と「お客様」という関係になってしまったら
教育なんて成り立たないんです。
なぜかというと、
「お客様を教育しなければいけない」
という到底無理なジレンマを抱えてしまうから。
もちろん現場では一生懸命でした、
K先生に『一生懸命やってればへたくそでもいつか必ず返ってくる』
って言われて。
あり難いことにそれを体験させてもらってます。
皆川:ご著書のなかに、
宮大工の西岡常一さんの「人を木に例える」話がありました。
(注:西岡常一さんは法隆寺専属の宮大工。薬師寺の西塔や金堂の建立でも知られ、「最後の宮大工棟梁」と言われる。1995年没。)
大裕さん:あそこに、今日本の教育界が目指すべきバラダイムシフトのヒントがあるんじゃないかと思っています。
いまだに日本の教育界は、「大量生産のなかのナンバーワン」を目指す
っていうパラダイムで頑張ってるわけです。
だから、グローバル経済の中で国が衰退しないために、又はのし上がるためにどういう人材が必要なのか、と「デザインありき」なんですよね。
西岡さんがおっしゃってるのはそういうことじゃなくて、
「唯一無二のオンリーワン」を目指すんだっていうことだと思うんですよね。
すごく印象に残ってるエピソードは、
昔宮大工が山に入って山ごと買ってたっていう話。
当然、斜面によっては木の生え方が違う。
南の斜面にいけば太陽をいっぱい浴びて幹が太くなって立派な木が立ってる。
でも実はやわらかいんだ
っていうことを宮大工の棟梁は知ってるわけですよね。
素人がやったらそれを柱にする。
でもそんなことしたらすぐ壊れてしまう。
だからそういう木は天井などに使う。
北の斜面に行けば細いかもしれないけども過酷な環境で育っているから芯の強い、
柱に向いている木が育ってる。
また、斜面によっては、ある方角から風が吹く。
そしてその風に折られないように、と木はねじれる。
だから、癖っていうのはなにも悪いものではなく、
生命力の表れだっていうんです。
宮大工は何をしていたかっていうと、
最初にデザインがあって
それに合わせた使いやすい木を使っていたわけではなく、
別なようにねじれてる木が二本あったとして、
じゃあこれとあれを組み合わせようと、
それぞれの癖を見極め、
癖と癖とを組み合わせ、生かすことで、
いままで存在しなかったような
唯一無二の建物を創ってきたわけです。
西岡さんは『困った時代になっている』と言いました。
宮大工の棟梁でさえ木の癖を読めなくなってきている。
なぜか。
設計書ありきだから。
設計書が決まってて、
そこにあった癖の取られた使いやすい木を製材所から持ってくるわけですよ。
でもお寺さんとかを作る木だと樹齢何百年は当り前の木で、
木の癖を見極められない宮大工が
そういう木を使ってしまうと、
300年後400年後にその癖は必ず出てくるんだっていうわけですよ。
出てきて建物を壊してしまうと。
今まさに設計書ありきの癖をとった使いやすい「人材」を育てるような
世の中になってると思うんです。
今、人材って言葉普通に使うじゃないですか。
あれこそ僕は新自由主義(注:世の中を経済的な観点からのみ理解しようとする世界観。この考え方が公教育の市場化と格差拡大、公教育民営化等の教育改革の背景にある。)の象徴じゃないかと思っていてね。
材料ですよ材料。
でもね、隠岐の島なんかに行ったときは
じんざいっていうときに「人財」っていう字を使ってました。
それだったらわかる。
過疎の地域にとって人は宝物ですからね。
来てくれるだけで、「ありがとう」だし、移住してくれたらもう(笑)。
皆川:そのお話を子どもの育ちに転化すると、
子どもの持って生まれた資質とか才能とかを観察して
ひとりひとりの個性=癖を
世の中に出してくことがいいことだと捉えられるでしょうか。
そういうなかでは、親にとって、
子どもの「癖」を観察する力も必要だし、
それを現実と合致させていく手腕も必要ですね。
先生はもちろんですが、
親にもその能力が求められてると思うんです。
具体的にどういうことをお母さんにアドバイスいただけるでしょうか。
大裕さん:一つ言えるのは、
モノ・カネの価値観の中でやろうとしてたらそれは無理ですよね。
やっぱり生産性っていうことでしか評価されないわけですから。
どんなにユニークな学校があったって
塾に行くだろうし家庭教師をつけるだろうし、
偏差値っていう中で
何とか勝負しなきゃいけなくなっちゃう。
真の教育改革って
「しあわせ」の価値観の多様化と同時並行じゃないとあり得ないと思ってて、
だからここ(土佐町)にいる意味があるんです。
そういうなかで教育と幸せっていうのを考える価値があると思う。
これは都会ではなかなか難しいんじゃないですかね。
皆川:しあわせと自己実現、
それを考えられる場所として、ここ高知県嶺北にある土佐町を捉えていらっしゃるのですね。
大裕さん:そうですね。
いま「教育と幸せ」について発信すると同時に、幸せの形を、「これって幸せだよね」
っていうことを発信しています。
皆川:この小さな町には貨幣の量はたくさんないかもしれないけど、
豊かな人の幸せがあるっておっしゃっていたのがとても印象的でした。
大裕さん:そうそう。
さっきの質問に戻ると、やっぱり偏差値の枠組みの中ではどうにもならないと思いますね。
だから僕、全国学力調査なんて大反対なんです。
やるんだったら
なんで理科や社会はテストしないの?
美術は、体育は、音楽は?
やるんだったら全部やれよって。
学力調査の学力って国語と算数のペーパーテストだけなの?って。
ちなみに、「生きる力」ってそれで測れるの?
ってことなんですよね。
だからやっぱり評価っていう問題も一緒に考えなくちゃいけないと思っています。
子どもの学力ってなにをもって学力っていうんだろう
っていうのは親としても
声を上げていかなくちゃいけないとこなんじゃないかなって。
アメリカではあまりにもテストへのプレッシャーがすごくなって、
教員評価もテストの点数で行われるようになって、
その影響が子供たちにも出始めているんですよね。
だから子どもたちは
私のテストの点数で先生が解雇されちゃったらどうしよう
ってプレッシャーに感じて学校に行けなくなっちゃったりとか。
だからアメリカの親たちがやったのは
『私の子どもは点数じゃないんだから』
って、数値化しないでくれって訴えたんです。
<後記>
伺わせていただいたこの嶺北地区はとても素敵な場所でした。
「こんな澄んだ水の川がまだあるんだ・・・・」
自然のなかの暮らしの豊かさが人々の心も豊かにしている。
大裕さんのお話を通してその大きさというか、
視座の高さと広さを存分に感じました。
ニューヨーク・マンハッタンから、
それまで縁のなかった高知県の限界集落に引っ越すというのは、
どれだけ勇気がいることなんだろう!
とはじめ思って伺いましたが、
そのハードルを何事もなかったように
ヒョイ!と乗り越え、
地元の方たちと大酒かっくらって語り合う
大裕さんのお姿は、
これからの日本の新しい希望だなあと感じます。
日本中から100名くらいの教育者が集まる座談会なども催されています。
あと3回にわたり、インタビューを掲載いたします。
次回は
➡公教育って何だろう。~アメリカの公教育のある側面~です。