2018年3月3日
2015年、秋。
ついに、ついに念願叶って,
リニューアルオープンの豊田市美術館に行きました。
その時の企画展、ソフィ・カル。
1953 パリに生まれる
1990 「脱走する写真-11の新しい表現」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、「移行するイメージ-1980年代の映像表現」(京都国立近代美術館、東京国立近代美術館)
1996 個展「本当の話」(ギャラリー小柳、東京ほか)
1997 個展「Suite Venitienne」(ホワイトキューブ・ギャラリー、ロンドン)
1998 個展「The Birthday Ceremony」(テート・ギャラリー、ロンドン)
1999 個展「限局性激痛」(原美術館、東京)、個展「ダブル・ゲーム」(ギャラリー小柳、東京ほか)
2001 個展「Sophie Calle:Public Places-Private Spaces」(ユダヤ美術館、サンフランシスコ)
2003 個展「ソフィ・カル」(豊田市美術館)、個展「Sophie Calle, Mas-tu vue」(ポンピドゥー・センター、パリ)
1986年、彼女はこの作品のために1年間にわたって生まれつき目の見えない人たちとの対話を試みました。彼らに「これまでに見た一番美しいものは何か」という質問をぶつけ、インタビューに応じた人の肖像写真、言葉とともにそれをヴィジュアル化した写真を添えて展示したのです。
興味深いことに、彼らの答えの大半は、とても視覚的なものでした。「見ること」とは、私たちが考える以上に主観的なプロセスのようです。彼らが語った言葉は「見ることとは何か」「美とは何か」について思いがけないことを教えてくれるのです。
(豊田市美術館HPより)
ソフィ・カルはこの「盲目の時間」という展覧会で
とても高い評価を得ています。
目が見えないのに、
自分の部屋を飾ることについて語っていたり、
夫のことをイケメンだと言っていたり、
海が好き、とか
好きなものはみんな緑だと周りが言う・・・等々
え?
見えていないのに?
というのが
普通の人の感覚でしょう。
わたしもそう、どうして見たことがないのに、
そういうイメージを持つの?と。
そうなんです。
美しさ、というのは
見える、
ということとセットだと思っていた。
でもね、展覧会を見進めるうちに、
見た映像は頭にあるイメージとセットではないのね?という疑問が
大きくなっていきます。
5番目くらいの展示室に海を見たことがない人が初めて海に来た、という
映像のアートがありました。
何人分も、映像が流れているのですが、
どの人もただ、だまって、海の方をむいている
その後ろ姿をカメラは捉えています。
なかには流れる涙をぬぐいぬぐり立っている人もいました。
何を思っているのでしょう。
走馬灯のように人生を思い出しているのか、
我が子の未来を思っているのか、
自分のなかをていねいになぞっているのか、
正確にはわからないけど、
その人の心がふるふると震えているのが
わかるのです。
その姿に胸を打たれて、
涙が出てきました。
海に出会う。
人はあの空間にいるだけで、
心うごかされ、
深く自分を感じながら立っていることができる。
恥ずかしいけど、
こっそり涙をぬぐっていました。
(そうしたらあとでみんなそうだったのが判明)
そのくらいダイレクトに人の心に訴える
素晴らしい作品だった。
美しいとは一体なんなのか。
「わたしの頭のなかに持っている美のイメージはこれです。」
そこに意識を向けるということだけで、
美しさを持っていることができる。
盲目の人たちの「美しい」を見て
きっと誰でも心を揺さぶられる。
それは個人的、内面的なできごとなのだけど、
それを持っているということが
存在の周波数として
まわりに伝わっていきます。
美しさをすくいとるその心、自体が美しい。
それを確かなものとしてとらえるか、
不確かなものとして捉えるか。
人は見たい世界を選んで生きているのだもの、
わたしは確かなものとして捉える方をチョイスする。
美しいってなんだろう。
わたしの一生のテーマ。
一緒に、探しましょうよ
自分を満たしながら、楽しくね