2018年2月10日
毎朝くりひろげられるドキドキな
「留年すれすれチャレンジ」。
起きられる?起きられない?
行く?行かない?
というのを親も子もドキドキしながら繰り返しています。
それはひとえに高校の卒業証書がほしいから。
高校卒業認定試験(昔の大検)より簡単に手に入るから。
その奥には
「自分のやりたい勉強をできる大学には行きたい」
という娘の希望と
バイトにしてもなんにしても
高卒と中卒で差別される日本の慣習にトラウマを感じるかもしれない
というわたしの杞憂があります。
そんなのほんとはいらないんですけどね!
でも
「卒業証書ほしいだけ」の毎朝のストレスにだんだん耐えられなくなってきて、
今朝はじっと考えていました。
そのとき、思ったんです。
私は娘に、生きることそのものをガマンさせてないか?
ガマンというものにも種類があります。
①生命の根元レベルのガマン。
②やりたいことのために、これをすれば到達できるのガマン。
③ささいな日常レベルのガマン。
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①は行動や移動の自由を奪われるという生命レベルのガマン。
存在そのものを認められてない、
ありのままをなかったことにされてるという、存在否認に対するガマン。
→これは致命的です。
②は、この子に学校いかせたいからそれほど好きでないパートでもやっちゃおうとか。
目的のためにがんばるガマン。
③は洗濯物毎日たたむのはめんどくさい、とか(笑)
毎回支払いをするのはめんどくさい、とか(笑)電車通勤しんどい、とか。
(これが日常レベルガマンでない精神状態の方もいらっしゃります)
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少し前に
「全員が自由に生きるなんてありえない。ガマンすることも大事だと子どもに教えるべきだ」
というご意見をいただいて、もやもやしていたのですが、わかりました。
②と③のガマンは教えるべきで
仕事している人は全員、生きている人は全員しているガマン。
でもこれ、子どもは実は知ってます。
ほんとうにやりたいことのためだったら、教えなくてもガマン強くやります。
重大問題なのは、
生きることそのものを、【ガマン】にさせていないか?
子どもにとって生きる、とは日中の時間全部。
わたしは 生きることをガマンとイコールにさせてないか?
生きることは、ガマンなんだと、
親として一番やっちゃいけないことをやっていないだろうか?