コラムColumn

HSPであるママへ

子どもが小さいお母さんへ「わたしだって我慢したんだから」の呪縛にかからなくていいよ!

2017年10月20日

かなり前に書いた記事ですが、このことを再度お伝えしたいということがあり

少し加筆修正して再アップします。

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今日は本当~~に久しぶりな近所のママ友たちと
娘の中学の担任だったY先生とのランチ会でした。

娘の担任としてお世話になったその先生は
若くってきれいで、
結婚前には海外青年協力隊として
南アフリカに行かれたほどのバイタリティーをお持ちでした。

娘の担任だったときも、
それはそれは明るくて軽いオーラで生徒たちの場を照らし、
生き生きと先生の周りに集う子どもたち、
同じ高さの目線で生徒を見つめる先生、
私はまぶしい気持ちでそれを見つめていました。

その先生が結婚を機に退職され、
小さな息子さんとの暮らしを
大切に日々を暮していらっしゃいます。

お母さんたちはそんな先生を囲んで時々ランチをしています。

でもY先生はあのときの、キラキラした感じでは全然なくて、
夜泣きのひどい息子さんの育児に疲れている様子・・・。

第2子も妊娠してらして、おめでとう、なんだけど

どうもテンションが低い・・・・・。

「先生、もう一度学校の現場に戻らないの?」

と聞くと、

ひとりのお母さんが間髪入れずに
「でもねえ、子どもが小さいときはそばにいたほうがいいからねえ」

と。

開きかけた先生の口は、静かに閉じました。

先生、心をこめて書きます。

「私たちもみんな苦労してきたけど、子どもといる時間が大切だから今はちょっと我慢ね」

という呪文にはまる必要はないです。

心からそれを望んでいたら、
そっちを意志をもって「選ぶ」とすればいい。

でも、もしもずっと閉塞感をかかえて、そこに蓋をしているのであれば

「活動」や「仕事」をすればいい。

(このSNSが発達している世界において、もう全然可能です)

「子どもが小さいときはただ子どものそばにいるほうがいい」

それはね、
私たちは苦労してきた、
あなたもそのくらいの苦労はしてね、

という、
母親たちの世界に対する復讐なのですよ。

子どもを育てるにはそれなりの苦労と我慢が必要だという呪縛、
そういう前提にあなたも従えという支配、
そしてそういう私を認めてほしいという承認欲求、

「子どもをかかえて仕事ができるなんて特別な人だから」
という無知、

そういうことに他ならないのです。

私も含めてね。

Y先生、それは母親たちの悲鳴なんです。

単なる悲鳴なんです。
だからその前提に、身をゆだねなくても
不都合は何も起こらないんです。

「母親が自分を100%生かしつつ、子どもをよりよく育てる」
ということは可能なんですよ。

私も実際、子育て真っ最中のときはここが分からなかった。
子どもを置いて自分が外に出ること = 子どもが心身ともに健康に育つ保証がない、
または子どもが無理やり母親と離れてかわいそう、
多少体調が悪くても保育園に預けられるから、かわいそう、
そういう世間のプレッシャーを感じて、恐怖に震えていました。

まあ、実際、長女は喘息の認定を受けていたので、

「自分だって体調の悪い時に外へいかされるのはいやなんだから

ずっと咳をしている子どもにそれはしたくない」

というシンプルな理由もありました。

実際、私はある程度大きくなるまで子どもたちと一緒にいたし、
その時間はもちろんとてーーーーーーーーーーも豊かな時間でした。

そのかたほうで、外に出て働きたい自分の欲求を
必死に抑えていました。

見てみないふりをしていました。

抑えないといけないと思っていたの。

抑えないと私たちに未来はないと思っていたの。

自分と世界を信じていなかったのです。

でもね、

そうじゃないよ、大丈夫なんだよ、

大丈夫だから。

あのとき先生の瞳は、生徒の声のざわめきと
今は遠い教育現場の喧噪をなつかしく愛でていました。

その気持ちは、
あきらめのなかで忘れようと努力されるべきものじゃない。

世の中には、家庭のなかでこそ力を発揮する女性(そういう資質に溢れた人)と

外に出てこそ自分の力を発揮する女性と、

どっちがどっちど2極化するわけではないけれど、

やはりバランスはどちらかに傾くのです。

家庭において力を発揮する女性は、

とにかくみんなもそうだと思っている場合が多くて、

「子どもを置いて外へ幸せを求めるなんて、どうかしてる」

と思っているふしがある。

「子どもたちと暮らしているなかに平安と100%の満足がある」

その芸術的であるとすら思った完璧なシアワセ感を
どうして私は持つことができないんだろう、
なんであの人はあんなに幸せそうなのに、
私は求めてばかりいるんだろう。。。

そんなふうに自分を責めたこともありました。

確かに、お母さんとしての才能がスゴイ人っている。
全くストレスなく、
子どもとの暮らしを100%エンジョイして、
そして良き大人へと子どもを導く。
(良き大人・・・については、今はおいといてね

完璧にそうです、賞賛に値します。

けれど、事実やっぱり向き不向きがあって、

家庭の中にいるとエネルギーを持て余すタイプの女性も

そりゃあたくさんいるんです。

それは能力の高い低いではなくて、

単に、持って生まれた資質の違い。

子どもとじっくり向かい合うも、

外へでて仕事をしつつ、子育ては人の手をかりるのも、

それで子どもがより良く育つかどうか、

関係ないと思う。

はき違えないほうがいいと思うのは、

子どもにとっての「不便」

「不幸」 と同じだと思わないこと。

お母さんが外で働くということは、
完璧に家事をこなすということが難しくなりますよね。
(それは物理的な意味です。時間的にあ~今日は洗濯ものが
たたみおわらなかった、とか
いつも窓がピカピカってわけにはいかないという意味で)

がんばりすぎたら、精神衛生上もよくないしね。

子どもに本を読んであげる時間も取りにくいかもしれないし、
少し咳がでている、程度では仕事は休めなかったりするから
子どもとしてもちょっとしんどくても保育園にいかなければならないのは、
正直キツイこともあるでしょう。

でもそれが子どもの育ちにどうかかわるかっていうと、

それは分からない、のです。

いいかもしれないし、
悪いかもしれない。
それを今すぐ「いい」に持っていこうとしていたこと自体に
無理がある。
親だって一緒に育つんだもの。

「子どもを完璧にいい方向に導かなければならない」
それ自体が恐れからくる思考だと
今は分かります。

そして子どもが二人以上いる人は
子どものもって生まれたキャラクターが違うことに驚くことがあると思います。
同じものを食べさせて、
同じ母親が育てているのに、
驚くほど姉妹で、兄弟で、キャラクターが違うというのは
とてもよくあること。

たんに長女のときは余裕がなかったから、とか
そういうことではとても計れないほど、
ふたりの性格にへだたりがあるとき、

「持って生まれたキャラクター」
という言葉があたまのなかに
浮かびます。

そのキャラクターは、いうなれば基本設定・特性です。

何かの力が働いたとき、
何かがそのキャラクターに影響を及ぼしたとき、
どのようなカタチで何かの症状がでるか
または出ないかは、
誰にもわかないのです。

たとえば、親が手厚いお世話をしないで育てたとき、

すごく自立したいい子に育つか、
インナーチャイルドに「甘えられなかった」という傷を持つ子に育つか、

それは分からない。

母親のせいではなくて、分からないのです。

ある程度観察すればどういうパターンかは見えてくるでしょうが、
完全に心の行方を見定めるのは不可能です。

だから育児書とかハウツー雑誌が
安易に

「こうすれば、こうなる」指南

を断言するのはどうなんだろう。

それはある程度の参考にはなるでしょう。
実際、おばあちゃんが一緒に住んでいないほうが多いのだから、
子育て経験者のハナシはいつだって聞きたいに決まってる。

けれどもその経験談とて
たったの数人にとっての「事実」です。

複雑な多様性を持つ人間、
自分の子どもがそれに当てはまらない確率のほうが
ず~~~~~~っと高いのです。

観察して考えること、
そして経験談を参考にして実験しつつ、
また観察して、
軌道修正していくこと、
また観察して
そして、待つこと。

そして子育ては「賭け、や 運」の部分も相当割合ある、
というのが私の結論です。

親が良かれと思ったことが裏目にでることだってある。

怒られたときに、

それをバネにする子と

しょげてへこむ子がいます。

それはこちらからはコントロールできません。

それと同じように、

子どもが不便と感じるようなことが、
子どもに暗い影を落とすなんて
限らない。

でも長ーいスパンの子育てだからこそ、
バランスがとれるし、
その親の「場」で
子どもは育つ。

それはいつだって、素晴らしいこと。

関係あるのはですね、

母親が幸せているってこと、それだけです。

母親が幸せでいれば、
子どもたちはうまく育つんです。

母親が世界を信じ、
自分を信じ、
自分のシアワセを知っていたら、
その波動を受けて育つ子供はたいていうまく育つのだと思います。

もちろん日々の努力は必要で、
押したり引いたり、スルーしたり、あの手この手で子どもの成長を
待たなければならないけれど。
(そしてこれはなかなかに、体力勝負

子どもは母親をイメージの世界の中で生かすことができます。
目の前にいなくても、
自分のイメージの中で母親がどう生活しているかを知っています。

だから、母親がシアワセであるということは、

自分の世界が安定しているということを
子どもたちは感性で分かるのだと思う。

だから母親がするべき仕事はただひとつ!

自分がシアワセであるとわかること!

そしてシアワセで笑っちゃってること!

そうなんです。

これがあの時わかってたらな~~~~。

という修行の場なんですね(笑)

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